生きる力が低い日本の子ども達~必要な勉強とは
日本の15歳の文章理解・記述・表現力が世界から見劣りがすることが問題視されている。いまこそ必要なのは「お勉強チック」ではない、お勉強ではないだろうか?
先日、経済協力開発機構(OECD)が実施した、義務教育修了段階の15歳児を対象とした国際学習調達度調査(通称PISA)で、日本が『読解力』分野で大きく順位・スコアを下げた。
この調査の対象となっている分野には「数学的リテラシー」と「科学的リテラシー」そして「読解力」がある。
前者の2つが、いかにもお勉強チックなのに対し、この「読解力」は国語的な読解ではなく、情報を扱うために必要な力となっており、特に2018年調査から定義が次のように拡大変更された。
「読解力」=自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、社会に参加するために、テキストを理解し、利用し、評価し、熟考し、これに取り組むこと。「生きる力」そのものとなっている。
この力は何をもって測定するのか。次の3つだ。①情報を探し出す ②理解する ③評価し熟考する
このうち「②理解する」は、国語的読解力に近く、お勉強チックなので、日本の15歳も成績が良かったらしい。
しかし、〝事実〟と〝意見〟を区別したり、複数資料からそれぞれの主張を評価することはかなり苦手で、低い成績となっている。
この「読解力」が低いということは、単に国語的能力が低いというだけの問題ではない。ネットがこれだけ普及している社会で必要な情報を探し出し、その信ぴょう性を評価し、複数の情報を掛け算して新たな価値を見出すという、まさに〝生きる力〟を問われているといえる。
勉強は何のためにしているのか? テストの点を取るためでも、通知表の評価をあげるためでもない。もちろん、受験のために勉強するわけでもない。
本来は、子供たちが大人になって社会に出たときの「生きる力」を養う〝手段〟として勉強があるはず。社会の現状と切り離された〝お勉強チック〟な学びに、いったいどんな意味があるというのだろうか?